胃カメラか、胃バリウムかで迷われる方へ
健康診断のために胃の検査を受けることの最大の目的は、胃や食道の早期癌を発見することです。
胃カメラ検査と聞くと、反射的に苦しそうなので嫌だとの先入観を持つ方が少なくないでしょう。またアメリカで胃カメラ検査を受けると、少なからぬ費用がかかってしまします。しかし、もし健康診断のために胃カメラ検査を受ける選択ができるのであれば、ぜひ胃カメラを受けてください。一方、アメリカで健康診断のために胃バリウム検査を受けようという方、この検査には以下で述べる様なリスクと限界があることを理解しておいてください。
日本は欧米に比べて胃癌の発症率が高く、それを早期に発見するためのスクリーニングの方法として従来は、胃バリウム検査が幅広く採用されてきました。主に日本人の手により開発され、改良されてきた2重造影法と呼ばれる検査法により、これまで数多くの人命が助けられてきました。胃癌のスクリーニングの目的で、これまで胃バリウムの果たしてきた歴史的な役割を否定することはできません。しかし最近になって、そのリスクと有用性が改めて見直されようとしています。その大きな理由の一つが、検査に伴う多量の放射線への被曝の危険性です。その結果、現在日本で行われる人間ドックでは、放射線を多く被爆してしまうバリウム検査に置き換わり、胃カメラ検査を行うことが次第に主流になりつつあります。
では、胃バリウム検査で実際にどのくらいの放射線を被爆することになるのでしょうか。胃バリウムの直接撮影検査では一般に、平均して15から25ミリシーベルトの放射線を浴びるとされています。シーベルトとは、放射線の種類による違いを加味した生体への吸収線量の単位です。1年間に自然に浴びる放射線量は1から1.5ミリシーベルトとされていますので、胃バリウム検査ではその約10から25倍もの放射線を短時間に浴びてしまいます。短時間にこのような大量の放射線を浴びると、遺伝子の本体であるDNAの一部に傷をつける可能性があるかも知れません。さらに毎年バリウム検査を受け続けるとすると、この放射線による遺伝子の傷害が次第に蓄積されていくと考えられており、長年にわたるDNAへの影響により、最終的に発癌に至ってしまう可能性は否定できません。参考として、直接撮影による胸部X線写真による放射線被爆量は0.07から0.1ミリシーベルトですので、胃バリウム検査では、何と通常の胸部X線写真の約150から350倍の被爆があることになってしまいます。この被爆量がいかに大きいかを理解するには、被爆チャートが参考になります。現在のチェルノブイリ原発跡に1時間滞在した時の被爆量の2−4倍というのですから全く驚きです。
2004年にLancetという学術雑誌に英オックスフォード大のグループが、日本で癌になる人の3.2%は健康診断や病気の診断を目的とした医療機関でのX線検査に伴う放射線の被曝が原因と推定されるというショッキングな報告をしました(Lancet. 2004 Jan 31;363(9406):345-51)。この研究は、各国の放射線検査の頻度、検査による被曝量、さらに年齢、性別や臓器ごとの放射線の被曝量と発癌率の関係についてのデータから、放射線検査に起因すると考えられる発癌者数を推定したところ、日本では1年間に7587件、何と癌発症者全体の3.2%が医療機関での放射線暴露に関係するらしいとの結果がでました。英国とポーランドが0.6%と最低で、アメリカは0.9%、調査が行われた15か国の中で日本が最も高率でした。日本は1000人あたりの1年間の放射線検査の回数が1477回と最も多く、この数字は15か国の平均の1.8倍、発癌率は平均の2.7倍であり、また1回の検査あたりの被曝量が他国に比べてより多い(被爆量の多い胃バリウムやCT検査が多く行われているため)ことが明らかになりました。この報告について、方法論と結果の解釈をめぐって、その後多くの議論がなされていますが、少なくとも倫理的に、不必要なX線検査を避けることの重要さを日本の医療従事者に再確認させました。医療の先進国を自負する日本として、癌全体の3.2%が検査のための放射線被爆で発症したという誠に恥ずかしい状況を打開していくためにも、過剰なX線検査をできる限り減らしていなくてはなりません。健康のために胃バリウム検査を受けて胃癌になることほど、馬鹿げたことはありません。
そもそも、身体に放射線を人工的に暴露するという行為は、それにより得られる利益が、その行為に伴う放射線の被曝による身体の障害などを含めたすべての損害よりも明らかに大きい時のみ許されるべきです。医療行為に携わるすべての関係者が、患者さんに対する放射線の暴露を必要最小限に抑えるよう常に細心の注意を払うべきです。
これは個人的な意見ですが、残念ながら、アメリカで行う胃バリウム検査は、必ずしもこの条件を満たしているとはいえません。アメリカでは胃癌の発症率が日本に比べると圧倒的に低く、胃バリウム検査(Upper GI Barium Contrast Studyと呼ばれます)自体もあまり行われておらず、検査、読影をする医師/技師の技量や経験に大きく依存する胃バリウム検査の質は残念ながら、一部の施設を例外として、日本で行われるものに及ばないといわざるを得ません。私もいくつかの施設で行われたバリウム検査のフィルムを借用してみて、その質の悪さに愕然としたことがあります。
そもそも、健康診断の一環として、胃バリウム検査を行う最大の目的は、胃や食道の早期癌を発見することにあります。胃カメラによる早期胃癌の発見率は、胃バリウムと比較にならないほど優れています。たとえ日本で行われる優れた胃バリウム検査であっても、胃カメラ検査に比べると、その診断能には限界があります。例えば胃バリウム検査では、早期胃癌などの微小な病変を検出することは難しく、胃炎など粘膜の色調の変化しか示さない病変は見逃されやすく、また食道の微小な病変についても見逃されてしまうことが多い(バリウムの食道通過が早く、撮影が難しい、また平坦型の多い早期の食道癌は検出がされにくい)、などの限界があります。また胃バリウム検査で異常が見つかった場合には、結局は胃カメラ検査を行わなければなりません。一方胃カメラ検査では、色調の変化も含めて直接胃粘膜を観察し、悪性の病変が疑われる部位から組織を採取して生検による病理検査をしたり、必要に応じて特別な色素による染色をして精密な観察をすることもできます。例えば、早期胃癌の全体の3分の1を占める平坦な形をした癌は、胃バリウム検査だけでは発見できません。
ちなみに、胃バリウム検査が胃カメラ検査と比較して例外的に優れているのは、進行癌の浸潤範囲が客観的に評価できること、スキルスと呼ばれる胃壁をはうように進行する特殊な胃癌を見つけやすいこと、アメリカに限っていえば、検査の費用が胃カメラ検査に比べて安価であること、などです。経験の豊富な消化器医であれば、胃バリウム検査と胃カメラ検査それぞれの長所と短所をしっかりと把握した上で、状況に応じて適切な検査法を判断してくれるはずです。
胃カメラ検査は痛く苦しいこともあるので、できれば受けたくないという方が少なくありません。確かに楽な検査とは言えないかもしれませんが、最近の胃カメラ検査は軟らかく、径の細いスコープを使いますので、一般に昔ほど苦痛は大きくありません。また経鼻スコープといって、患者さんの苦痛を軽減するために、鼻を通して径5mmほどの極細いカメラを挿入する検査システムを導入する施設も増えてきています。
以上より、アメリカで受ける健康診断のための胃の検査について、多くの放射線に被曝されることによる発癌のリスクを避けるという消極的な理由ばかりではなく、胃や食道の早期癌を発見するためにより質の高い検査を受けるという積極的な理由により、費用の負担増を考慮した上でもなお、胃バリウム検査よりも胃カメラ検査を受けることの方がはるかに有意義であるというのが私の意見です。